なつやすみの読書感想文

読んだり、見たり、聞いたりしたものについて、書きなさい。

大岡昇平『俘虜記』

再読なのだけれど、実ははじめての通読です。

本人が「アンチ戦後文学」だ、というだけあって、アンチ小説。

俘虜という「飼われた」体験と、芸術への懐疑というか、自嘲が折り重なっていて、

その「嗤い」もぴったりはまっていて、

尖ってます。

「他人の飯も3年ひととこで食えば他人の飯じゃねえからな」という吉田など、

名言を吐く名キャラ続出。

女形の男たちの描写や、美人とは何か、などなど、

読んでいて全く飽きない話題転換の手つきも見事なら、

その「小説」的手つきを嗤ってみせる手つきも見事。

「楽しくねえからああやって遊んでんじゃねえか」

男に生れたらこういう台詞をピンポイントでいいたいものですね。

思想が負け、肉体が生き、楽しくないから遊びまわる俘虜たちは、

太宰文学の死にたがりの道化にも似て、シニカルでかっこいいです。

シニカルという状態は文学の独壇場ではないでしょうかね。

とか思ってるとこの作品は

「冗談を言ってるのに本当はなんていうのは歌舞伎だけだ。冗談を言っている人間は冗談のことしか考えちゃいねえ。」

とかばっさり切ってくるから愛しいですね。

アクセル・ホネット『自由であることの苦しみーーヘーゲル『法哲学』の再生』

 

近年、幅広い戦線にわたっておこってきているカント的伝統に属する理性法パラダイムへの回帰に対し、ヘーゲルの『法哲学』を再生する試みである。ホネットによれば、ヘーゲル法哲学に対しては、政治的な疑念と方法論的な疑念があるため、この影響が失われてきている。政治的な疑念とは、「個人の自由権が国家の倫理的な権威のもとに位置付けられているため」、「反民主主義的な帰結をともなう」のではないかという疑念である。また、方法論的な疑念とは、精神の概念を前提としなければ理解できないものなのではないかという疑念である。

ホネットは、これらの疑念を直接的に批判して『法哲学』を再生するのではなく、「間接的な形式による再生」を図るといい、そのうえで『法哲学』における「客観的精神」と「人倫」という概念に着目し、これを正義論として読むという。

ホネットは、ときにヘーゲルのカント批判を参照しながら、『法哲学』を再生していく。『法哲学』では自由の概念として、「抽象法」「道徳」「人倫」が提唱されている。法的自由と道徳的自由はつねに、「無規定性の苦しみ」に陥る可能性のある不十分な自由である。法的自由に自分の欲求や意図を根拠づけてしまうと、形式的な法に回収されないコミュニケーションに参加することができず、「無期定性」に陥る。そして道徳的自由の不十分さを説明するために、ヘーゲルはカントの「コンテクストへの盲目」を批判する。

ここでヘーゲルの自由をカントの自由と分かつもののひとつは、「客観的自由」の概念だろう。ホネットはヘーゲルが「「客観的精神」として理解していたのは」、「理性の自己反省が、社会的な制度と実践という外的な現象における人間精神というかたちで実現される段階において、そのプロセスを再構成するはずの部門」と説明している。コンテクストの中にいるときには、「客観的精神」はあらわれないのだ。まさに、「ミネルヴァの梟は夕暮れに初めて飛び始める」のだ。

 しかし、道徳がコンテクストに無自覚であることを指摘するだけでは単に相対主義に陥ってしまう。ここで「人倫」の概念が登場する。「人倫」とは、「家族」、「市民社会」、「国家」という、「すでに制度化されたわれわれの生活実践の(理性的と証明された)規範的準則」である、とホネットはいう。

しかしホネットは、ヘーゲルのいう「人倫」の「過度な制度化」を批判する。たとえばホネットは、なぜ「人倫」の制度のひとつが、「友情」ではなく「家族」なのかと問う。ホネットはその問いに対し、ヘーゲルの言葉を引いて「愛は感情であるから、あらゆる点で偶然性が入り込むのを許すが、偶然性は人倫的なものがとってはならない形態であるから」だと答えを出す。

「なぜ人倫は「偶然性」の「形態」をもってはならないのか」。ホネットは更にこのように問う。そしてその答えは、「人倫は実定法的な枠組みなしでは、あらゆる主体に保障された、安定した自由の条件を提供できないから」だとする。つまり、「さまざまな人倫の領域は、それぞれの主体が自由を根拠にして等しく参加可能な社会的相互行為の関係として考えられるべきであるので、国家による立法をとおしてつねに普遍的に管理可能であるという意味で、公共財として表象されなければならない」ということである。

 国家の介入可能性という前提のもとでのみ存続できるという人倫があらゆる主体に対して保証されることを正義とすること。このパラドックスこそ、ホネットが間接的な道をたどる所以なのだろう。

ジェイソン・ライトマン『ジュノ』(映画・洋画)☺

17歳の母、の物語。

重いテーマでありながらコメディタッチで、

ジュノの、「出産」ということにすらリアリティを持てない姿が斬新でした。

最後に子どものない、しかも離婚した女性に、ポン、と子どもをあげてしまって、

ボーイフレンドと仲良くなって、良かったよかった、というエンディングを、

わりと突き放して、肯定も否定もせず、

「でも、あるよね、こういうことって」

そんな感じで、私は好きでした。

最初にジュースを飲みながら歩いてくるところ、

つぼにゲロを吐くところ、よかった。

そのジュースが青いんですよね。

で、おなかのなかの赤ちゃんを撮影するとき、おなかに塗る薬剤の青さとつながってます。

セックス、妊娠、出産、なんだかおおごとのように思えます。

でも、こんなふうにかるーくしかそれを感じられない人って、確かにいるし、

自分のことに対してなんとも思えない、それを悪いと思えない、

かっこつきの「自然体」のジュノは、

怖かったけど、それはそれで私にはとってもリアルでした。

まあ実際こういう生き方は断罪されるべきでしょう。

だから描けるのは映画の中でだけです。

映画は終わっても、ジュノの人生は終わりません。

人生の途中で終わることができる。これはフィクションの利点です。

三宅喜重『阪急電車』(映画:邦画)

中谷美紀、顔小さいですねーー。美人。

 

有川浩さん原作なのですね。

可もなく、不可もなく。

求めていたとおりのものがあって、うれしい。

そういう映画でした。

電車で会っただけの人と重い話しすぎだろ!というのはかっこにくくるべきですね。きっと。

でもこういう映画見て変に触発されて公共の場でさみしさをまぎらわせようとしてくる人もいるから、あくまでもフィクションとして楽しんでほしいですね。

女の人が何かを捨てて(おもに共同体)ひとりで歩きだすのを肯定する映画、

けっこう好きです。

 

『脱構築とプラグマティズム』

ローティのデリダ解釈をめぐる論争です。収められている論文・論旨は以下の通りです。

脱構築プラグマティズムについての考察」(リチャード・ローティ
ハイデガーデリダは西洋形而上学に対する根本的な二元分割に疑問を抱いているという点で、プラグマティストに近い。
・しかし、「ニーチェハイデガーデリダ形而上学への攻撃は、哲学に深くかかわっている人には私的な満足を与えるが、間接的に長い目でみる場合は別として、政治的には何の影響も与えない」
・ 「レヴィナスへの無限者へのパトスは、…それを倫理や政治と結びつけることができない。倫理や政治――文化としての政治に対立するものとしての現実政治 ――は、対立する利害を調停することであって、――哲学的分析は不必要で哲学的前提も要らない――陳腐な身近な言葉で論議されるべき」

脱構築プラグマティズム――デリダは私的アイロニストか公的リベラルか」(サイモン・クリッチリー)
〈ローティ解釈〉
・ローティは、「デリダの仕事が公的領域に広がると、無益とか有害であるどころか危険かもしれない倫理的、政治的影響があると」信じている。
・ローティのユートピアはリベラルなアイロニストという社会の構想
 →・議論によってではなく、形而上学をアイロニーとして捉えなおし、アイロニーをリベラリズムと矛盾しないように捉え直すことによって可能になる
  ・自由社会の普遍化によって可能になる
 →自由民主主義に必要なのは文学であって、哲学ではない。
〈批判〉
・「こういう見解は政治的自己満足に陥る危険があって、現存の自由民主性の内部の不平等や不寛容や搾取や公民権剥奪についての事実確認的な弁護であるかのように読まれかねない」
・リベラルでありながらアイロニストでもあることはできない。リベラリズムはひとつの倫理だから。
・ ローティはデリダを「デリダⅠ」「デリダⅡ」と初期と後期にわけて、公的から私的になったとしたが、この区分が疑わしいものであるだけでなく、デリダは公 的→私的というものではなく、理論的思索の叙述という形式から遂行的叙述へという変化をしており、更に近年では責任という公的な問題のほうが圧倒的に支配 的であり、スタイルは理論的でも遂行的でもなく準・現象学的になっている。
・「もちろん私の結論は、公的なものと私的なものとを和解させるとい う、ローティは不要だとみている古典的哲学のプロジェクトを、デリダが達成しようとしているということである。もし脱構築が正義にかなっていれば、こうし た正義への責任は、私的な自己創造においても公的な責任においても完全に妥当することになる。」

「サイモン・クリッチリーへの応答」(リチャード・ローティ
・「正義」というようなふつう使われる言葉を、不可能性の名前だとする定義に重要さはない
・命題はコンテクストを求めるが、命題のいいところは状況に応じてメッセージをいくらでも変えられるところ
脱構築は倫理的な意味はもちうるが、本質的にマージナルなものであるため、政治的意味はもちえない。
→ローティとクリッチリーの違いは、哲学的というより政治的なものである。

脱構築プラグマティズムヘゲモニー」(エルネスト・ラクラウ)

「エルネスト・ラクラウへの応答」(リチャード・ローティ

脱構築プラグマティズムについての考察」(ジャック・デリダ
・「決定不可能性または無限責任というテーマが、ローティがいったようにロマンティックであるとは思いません」「責任の無限性を捨てれば、責任は存在しないと私は言いたい」
・ローティは選択の問題を放棄している(プラグマティズムと民主主義の間に必然性はなく、そこにも選択の不可能性と事後的な決定という問題があるというラクラウの論を受けてか)

加藤典洋『敗戦後論』

どうやって話しながら生きていけばいいのかを実際的に考えた本でした。

 ここでは四人の文筆家が挙げられています。いずれも第二次世界大戦経験者です。すなわち、大岡昇平太宰治サリンジャー、ハンナ・アレントの四人です。
 では、彼らは生き残ってしまったあと、どんな「語り口」を選んだのか?

 まず大岡昇平は、戦争体験という「よごれ」を自覚し、ごまかさないことを選びました。たとえば彼は『俘虜記』にこう書きます。

  広島市民とても私と同じ身から出た錆で死ぬのである。兵士となって以来、私はすべて自分と同じ原因によって死ぬ人間に同情を失っている。

  彼はどんな死者も超越化しない、そのことによって悼む、という方法をとり、またそのようにしかできませんでした。「自国の死者を悼み、そのことによって他 国の死者を悼みはじめる」、という、加藤のいう「ねじれ」の体験への可能性をもった語り口ではありますが、この態度はやはり換算しきれない無限の個人の 「よごれ」、その量によって超越化され、私たちに生きづらさを強いるでしょう。しかも私たちがその生きづらさに撞着してしまう可能性は充分にあります。

 では太宰はどうだったのか。
 彼は坂口安吾などと違い、決して、戦後になってから「戦中書かれるべきだった」書き方で戦中を書かなかった、と加藤は解釈しています。太宰は戦後には戦後のことだけを書いた。
  私たちは間違った。間違いを信じた。加藤によればこの間違いこそ文学の可能性です。だから間違ってしまった後から間違いに気が付いていたかのような書き方 をしてはいけない。その可能性の質が倫理的かどうかはここでは考えないけれど、間違うということを文学の可能性としています。
 たとえば太宰は「トカトントン」を書いた。信じることのできなくなった青年を小説家は叱ります。私たちは間違える。それを「恐れる」のではなく「畏れろ」と。
 この小説家の態度は、『ライ麦畑でつかまえて』のアントリーニ先生の態度です。青年を「未成熟な人間」とし、「卑小な生」を「高貴な死」に優先させる「成熟した人間」になれ、というあれです。
 しかしこの態度の「正しさ」はなんと落ち着き払ったものでしょうか。ホールデン君はその「正しさ」をうけいれず、「The catcher in the rye」になりたいと言います。加藤はこう書きます。

ここでホールデンは、あの「何かを肯定すること」とはじめて出会っている。彼は、上方からくる「正しいこと」、「誤らないこと」によってではなく、むしろ 下方からくる、より「誤りやすい」存在の手で、一つの肯定を摑む。あのゲヘナの苦しみにみちた勇気に対し、もう一つの秤におかれるのは、弱い倫理、ちゃら んぽらんな受け答えにささえららえた、この「誤りうること」の勇気なのである。

 「語り口の問題」では、『イェルサレムのアイヒマン』を 書いたハンナ・アレントの「語り口」が「同胞への同情に欠ける」というショーレムと、ハンナ・アレントの論争を契機にして、アレントの「語り口」を問題に しています。アレントの語り口とは次のような嫌味っぽいものです。

 ブーバーのように単に知名であるのみかきわめて高い知性を持った人 が、このように喧伝される罪責感などというものは事の必然としていかに作為的なものであるかということを見ていなかったとすれば不思議である。何も悪いこ とをしていないときに罪責を感ずるというのはまことに人を満足させるものなのだ。何と高潔なことか!…むしろ現在の実際の問題の圧力から安っぽい感傷性へ 逃れようとしているのである。

 ではなぜアレントはそのような「語り口」を選んだのか? それは一口にいって、「共同性」から「公共性」に至るためだったとされます。
 私的な「愛」から公共的「友愛」へ。加藤はここに、「日本三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジア二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道」への可能性を見出しています。
 私たちが「よごれ」ている以上、私的な「愛」は私たちをいやおうなく「分裂」させる、と加藤はいいます。しかし「共同性」と「公共性」は、ほんとうに異なるのか?加藤はその疑問に対し、「あとがき」でこういっています。

  しかし、たとえ国民という考え方が、これに立ってものごとを考えていくと、最後、ナショナルなものに取り込まれることになるとしても、また、主体という考 え方に立つことがすでにして、ネーションあるいは国民共同体の法への恭順になり、主体の形而上学に陥ることだとしても、しかし、わたし達は、この道を、こ の道がこのような危険をもつということを組み込んだうえで、この順序で、進んでいくのがいい。そしてそれが現実の問題として現れたら、そこで、これを解決 するのがいいのである。

 加藤はこのように「誤りうる形」を信じようといいます。しかしここでは、「誤りうる形」を信じることと、じっさいに「誤る」こと(=それが現実の問題として現れる)ことは、別の事態だとされているのです。
  これがどういうことなのかを理解しないと、わたし達がこのような道を実際に生きることはできませんが、無限の他者へつねにすでに負う責任にとらわれて生き ることにやはり鳥肌の立つ思いがする私は、「誤りうる形を信じつつ実際には誤らない」という可能性、このオイシイ話をぜひ受け入れたい。しかしそれがどう して可能なのか、そんなオイシイ話が本当にありえるのかは、まだわかりません。
 そのような、卑怯とされ、実際的だと私の信じるオイシイ生き方 を、ぜひ実践するために、私はリチャード・ローティを読みたいと思いました。リベラル・アイロニスト、公的にはリベラルでありながら私的ではアイロニカル であることがありえると主張する(と聞きかじった)思想家の話に、耳をかたむけることで、ぜひ幸せに生きていきたい、強く生きていきたいと思うのです。