なつやすみの読書感想文

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アクセル・ホネット『自由であることの苦しみーーヘーゲル『法哲学』の再生』

 

近年、幅広い戦線にわたっておこってきているカント的伝統に属する理性法パラダイムへの回帰に対し、ヘーゲルの『法哲学』を再生する試みである。ホネットによれば、ヘーゲル法哲学に対しては、政治的な疑念と方法論的な疑念があるため、この影響が失われてきている。政治的な疑念とは、「個人の自由権が国家の倫理的な権威のもとに位置付けられているため」、「反民主主義的な帰結をともなう」のではないかという疑念である。また、方法論的な疑念とは、精神の概念を前提としなければ理解できないものなのではないかという疑念である。

ホネットは、これらの疑念を直接的に批判して『法哲学』を再生するのではなく、「間接的な形式による再生」を図るといい、そのうえで『法哲学』における「客観的精神」と「人倫」という概念に着目し、これを正義論として読むという。

ホネットは、ときにヘーゲルのカント批判を参照しながら、『法哲学』を再生していく。『法哲学』では自由の概念として、「抽象法」「道徳」「人倫」が提唱されている。法的自由と道徳的自由はつねに、「無規定性の苦しみ」に陥る可能性のある不十分な自由である。法的自由に自分の欲求や意図を根拠づけてしまうと、形式的な法に回収されないコミュニケーションに参加することができず、「無期定性」に陥る。そして道徳的自由の不十分さを説明するために、ヘーゲルはカントの「コンテクストへの盲目」を批判する。

ここでヘーゲルの自由をカントの自由と分かつもののひとつは、「客観的自由」の概念だろう。ホネットはヘーゲルが「「客観的精神」として理解していたのは」、「理性の自己反省が、社会的な制度と実践という外的な現象における人間精神というかたちで実現される段階において、そのプロセスを再構成するはずの部門」と説明している。コンテクストの中にいるときには、「客観的精神」はあらわれないのだ。まさに、「ミネルヴァの梟は夕暮れに初めて飛び始める」のだ。

 しかし、道徳がコンテクストに無自覚であることを指摘するだけでは単に相対主義に陥ってしまう。ここで「人倫」の概念が登場する。「人倫」とは、「家族」、「市民社会」、「国家」という、「すでに制度化されたわれわれの生活実践の(理性的と証明された)規範的準則」である、とホネットはいう。

しかしホネットは、ヘーゲルのいう「人倫」の「過度な制度化」を批判する。たとえばホネットは、なぜ「人倫」の制度のひとつが、「友情」ではなく「家族」なのかと問う。ホネットはその問いに対し、ヘーゲルの言葉を引いて「愛は感情であるから、あらゆる点で偶然性が入り込むのを許すが、偶然性は人倫的なものがとってはならない形態であるから」だと答えを出す。

「なぜ人倫は「偶然性」の「形態」をもってはならないのか」。ホネットは更にこのように問う。そしてその答えは、「人倫は実定法的な枠組みなしでは、あらゆる主体に保障された、安定した自由の条件を提供できないから」だとする。つまり、「さまざまな人倫の領域は、それぞれの主体が自由を根拠にして等しく参加可能な社会的相互行為の関係として考えられるべきであるので、国家による立法をとおしてつねに普遍的に管理可能であるという意味で、公共財として表象されなければならない」ということである。

 国家の介入可能性という前提のもとでのみ存続できるという人倫があらゆる主体に対して保証されることを正義とすること。このパラドックスこそ、ホネットが間接的な道をたどる所以なのだろう。